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回想・川本輝夫 ミナマタ−井戸を掘ったひと

IF<INDEPENDENT FILMS>DVDシリーズ2 公害の原点・水俣から学ぶ Vol.15

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土本典昭仕事部屋
1999
42分

製作:土本典昭仕事部屋
監督:土本典昭
製作:土本典昭、土本(青木)基子、丸岡秀樹
素材協力:青林舎、東京・水俣病を告発する会
編集:掛須秀一

この映画は故川本輝夫追悼集会の際に上映された「私家版」ビデオである。

彼の半生の映像の集積であるとともに、「水俣病−その40年−」にもなっている。
映画は1999年2月に急逝した川本輝夫の45日忌(写真構成)から始まる。彼の逝去は、国内はもとより『ニューヨーク・タイムス』にも報じられた。彼を応援した鶴見和子や日高六郎からの弔意のほか、時に“敵側”であった石原慎太郎元環境庁長官や細川護煕元県知事/元首相からの弔意もあり、数百人に及んだ葬送の広がりが偲ばれる。
故人の座右の銘は「熱意とは事あるごとに意志を表明すること」であった。遺品には平成天皇の即位時に、水俣への行幸を求める請願書がある。全国行脚で名だたる昭和天皇が、昭和の代表的公害事件の地、水俣には来なかった事への問いかけだった。
チッソが噴煙を全市にまき散らしていた1970年、患者はわずか116名だった。父親を急性激症で悶死させ、自身も未認定患者だった彼は、埋もれた患者を訪ね歩き、時に重症の胎児性患者に会い、申請を勧め、その痛みを背負って動き続けた。こうして1971年のチッソ本社前での長期座り込み闘争へと続く。
1973年、川本ら患者はチッソと直接交渉の末、年金、医療費を含む協定書を締結した。これは今後、認定される患者にも全て適用される画期的なものだった。これに勇気づけられた潜在患者は次々に申請しはじめた。その急増に、企業城下町水俣の市民は、チッソ擁護、患者憎し、に傾いた。その憎しみは、申請運動の矢面、川本に向けられた。
1970年代、被害は不知火海全域に拡大していた。遠い天草の患者には、彼の訪れが頼りだった。彼は「水俣病は病気ではない。チッソの流した水銀による毒殺、毒害事件である」と、被害者の補償要求の正当性を説くのだった。
1990年代、むしろミナマタを世界的な“公害の聖地”、その教訓の発信地に転換しようとする動きが始まった。30年の空白を棚上げのまま市が、にわかに慰霊祭を復活した。彼はこれを行政の水俣病幕引きとみて、1991年に排水口のある百間港に自力で卒塔婆をたて、1994年には新潟水俣病の支援者から送られた地蔵を無断で建立、その意地を通すのだった。
ハモニカで余興を演じるような面もある彼は市議会議員になって活動を続けるが、患者自身かつての運動エネルギーを失い、内部の分裂もあり、彼は孤立を深めていった。
晩年(1998−99年)の土本宛の年賀状の添え書きに「離合集散、脱落、裏切り、中傷……人間不信の30年でした」あるいは「井戸を掘った者は置いてけぼり」などと書く一方、「東京の支援者には感謝」とあった。思えば独自に少数の同志の患者と東京で直接交渉の井戸を掘ったからこそ、水俣病事件は全国に知られ、百余名に過ぎなかった認定患者が40年後、2,263人に、“準”患者は10,305人に成り得たのだ。
急逝の直前、市議会での「水俣湾を世界遺産に」との発言が最後の言葉だった。「負の遺産として、かの世界遺産のアウシュビッツ、ヒロシマと同じく、ミナマタを人類の歴史に永久に止めよ!」それが彼の遺言になった。
(『土本典昭フィルモグラフィ2004』より)